人は自分の鏡

準拠枠の記事に書いたことに少し通ずるものがあるが、自分という人間は他者とのコミュニケーションの中に存在する。

つまり社会において常に人と接することで生きている。そこにはコミュニケーションが存在する。

 

社会とはコミュニケーションの総体であると思う。

立命館大学の法学者瀧澤教授曰く、

そこに人がいるだけでは社会は成立しない。人とのコミュニケーションが生まれて初めて社会は存在しうる。

この言葉は他者は自分の鏡であることを意味すると思う。

つまり自分という人間は、接する人の頭の中のイメージによって概念的に形成される。

「話すこと」を通して

相手がどんな人間で、どんな価値観を持っていて、その人だったらこうするだろう、と言った予測をする。

自分を認識してもらえて初めて人は自分の存在に気づくのではないだろうか。

そして、相手とのコミュニケーションによって相手の自分に対する行動や態度は変わる。


 最近私は何か相手に対して違和感を感じたら自分の行動を見直すことにしている。

それは他者は自分の鏡であると思うからだ。

正直、これは友人、恋人などと言った人間関係において言えることだ。


人間関係において、相手のことを完全に理解するのは不可能である。

しかし、自分の行動や言動に原因を探すことは摩擦や誤解を解消しうる考え方ではないだろうか。


しかし、政治の世界ではそれは難しいのかもしれない。

自国がその正義を掲げて戦争を正当化しそれが連鎖になっていく。

この世から戦争がなくなることを望んでるとかではなく、こう言ったことを考えると

いつも戦争は連鎖的に受け継がれていくのだと考えに至る。


そんなことを考えている午前一時である。


漫画ナルト42巻より、ペインがナルトに言った言葉を引用しておく。


俺たちは正義という名の復讐へと駆り立てられた普通の人間だ。

だが、復讐を正義と呼ぶならば、その正義はさらなる復讐を生み憎しみの連鎖が始まる